東京高等裁判所 昭和36年(行ナ)157号 判決 1966年9月29日
原告 フアルベンフアブリケン・バイエル・アクチエンゲゼルシヤフト
被告 大日本精化工業株式会社
主文
昭和三十五年審判第三七九号事件について特許庁が昭和三十六年七月十七日にした審決を取消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、その請求の原因として次のとおり述べた。
第一、本件審決の審決理由と之に至るまでの経緯
一、本件特許発明の要旨とその成立の経緯
(一) 本件特許発明の要旨は、その特許公報に記載せられた特許請求の範囲の項によれば、
「少くとも塩類の形において、水に可溶であるかあるいは容易に乳化しうる塩基性高分子化合物と共に、水に不溶なビニル重合物(甲第一号証特許公報に「重量物」とあるは「重合物」の誤植である。)の乳化液をば、必要の場合には顔料と共に、繊維物質上に印華し、加熱、蒸熱またはアルカリ処理により、これを定着せしめることを特徴とする繊維物質の処理法。」
である。
(二) 而して、原告(審判被請求人)は右発明について、西歴一九五〇年(昭和二十五年)十月三十日独乙国においてなした特許出願に基いて、日独工業所有権協定第二条による優先権を主張し、「繊維物質の処理法」なる名称を冠して、昭和二十七年六月十日、特許庁に対して特願昭二七―九〇三〇号を以つて特許出願をなし、昭和三十一年一月十三日出願公告(特公昭三一―一四四号)を経、同年四月十八日特許第二二一、五三一号として特許登録を受けた。
二、本件審決とその成立の経緯
(一) 被告(審判請求人)は昭和三十五年七月五日、原告を被請求人として、右特許権につき特許庁に対して無効審判の請求をなし、該請求は昭和三五年審判第三七九号事件として特許庁に係属したが、昭和三十六年七月十七日、右特許第二二一、五三一号特許を無効とする旨の審決(以下本件審決と称する)がなされ、該審決書の謄本は同月二十九日に原告に送達せられ、右審決に対する訴提起期間は職権をもつて三ケ月の延長がせられた。
(二) 右審判において被告が主張した無効理由は、その審判請求書(甲第二号証)請求の理由の項に明らかな如く、昭和二十五年六月三十日特許庁発行に係る特許第一七九、八二八号特許明細書(甲第三号証、以下出願人の名称を冠して鐘紡特許明細書と称する。)を引用の上、その特許明細書には、
「(イ) 錯酸ヴイニール、塩化ヴイニール、アクリル酸メチルエステルその他のヴイニール系合成樹脂の単量体をポリヴイニールアルコール、ポリ錯酸ヴイニール部分鹸化物の如き水溶性合成樹脂溶液等と共に乳化重合せしめた水煤体合成樹脂乳状重合液(註、他の箇所例えば審判請求書七頁末行以下ではこれを「ヴイニール系合成樹脂単量体等を乳化重合せしめた合成樹脂乳状重合液」と称している。)
(ロ) 縮合性樹脂初期縮合物及び
(ハ) 染料、顔料等
を添加包含せしめた糊を糸、織物等に印捺し、加熱処理して、これを定着せしめる繊維物質の処理法が示されていることになる。」
といい、被告は更に、
「前記(イ)のヴイニール系合成樹脂単量体等を乳化重合せしめた合成樹脂乳状重合液が、本件特許発明における水に不溶なビニル重合物の乳化液(以下B成分という)に相当するものであることは技術常識上明白であり」、
「また、前記(ロ)の縮合性樹脂初期縮合物としては、幾多の塩基性初期縮合高分子物が存在することにより、これらは本件特許発明における少くとも塩類の形において水に可溶であるかあるいは容易に乳化し得る塩基性高分子化合物(以下A成分という)に相当するものである。」
といい、それ故に、鐘紡特許明細書には、本件特許発明の内容たる繊維物質の処理法が示されていることになり、本件特許には無効理由がある、と主張した、のであつた。
(三) これに対して原告は、昭和三十六年二月二十八日附答弁書(甲第四号証)を以つて、被告の右主張を争う意を明らかにした。
(四) 然るに、本件審決は、その審決書(甲第五号証)に記載の如く、審決の理由において、鐘紡特許明細書の記載を検討の後、「該記載は、ビニル系合成樹脂の単量体とポリビニルアルコールなどの部分鹸化物との重合液に、蛋白質及び顔料などを加えた捺染糊を用いて生地を捺染し、次いでこれを加熱乾燥する捺染法を示したものと解することができる。」となした上、
「本件特許発明と上記捺染法とを対比するに、前者(註、本件特許発明を指す)における水に不溶性なビニル重合物(B成分)と後者(註、鐘紡特許を指す)のビニル系合成樹脂モノマーをポリビニルアルコールなどの部分鹸化物を混和した水性媒体中において重合した重合物との間には格別の差異を認め難い」
ばかりでなく、
「前者(註、本件特許発明を指す)において使用する、少くとも塩類の形において水に可溶性であるか、あるいは容易に乳化しうる塩基性高分子化合物(A成分)が、この場合後者(註、鐘紡特許法を指す)の使用する蛋白質を包含しないものと解すべき何等の根拠も見出すことはできない。」
と判断して本件特許に無効理由の存することを肯定しているのである。
第二、審決に対する不服理由
A 鐘紡特許に用いられる蛋白質
一、鐘紡特許の要旨
(一) 鐘紡特許発明は「水媒体合成樹脂乳状重合液を基糊とする堅牢捺染法」に関するものであつて、その特許明細書(甲第三号証)の特許請求の範囲の記載によると、この発明は、
(1)(イ) 錯酸ヴイニール、塩化ヴイニール、ヴイニリデン・クロライド、アクリル酸メチル・エステルの如きヴイニール系合成樹脂或は之等の混合物の単量体に、
(a) ポリヴイニール・アルコール、ポリ酢酸ヴイニール部分鹸化物の如き水溶性合成樹脂溶液、
(b) 乳化剤
(c) 重合促進剤
(d) 可塑剤
を加へ反応せしめて得られる乳状重合液を基糊とし、
(ロ) 之に色料等を混合せる糊を使用し、
(ハ) 生地上に印捺乾燥する工程
と、
(2) 次に、之を前記合成樹脂の軟化点以上の温度にて適当時間乾熱処理を施し水分を除去しつつ樹脂を生地に融着せしむる工程
との結合に特徴を有するものであることは明白である。
かように、鐘紡特許の特許請求の範囲の項には「蛋白質」なる言葉は全く見られないのであるが、本件審決は同特許明細書本文の記載より、鐘紡特許には、
「ビニル系合成樹脂の単量体とポリビニルアルコールなどの部分鹸化物との重合液に蛋白質及び顔料などを加えた捺染糊を用いて生地を捺染し、次いでこれを加熱乾燥する捺染法を示したものと解することができる。」
と判断し、
「前者(註、本件特許)において使用する少くとも塩類の形において水に可溶性であるか、あるいは容易に乳化しうる塩基性高分子化合物(A成分)が、この場合後者(鐘紡特許)の使用する蛋白質を包含しないものと解すべき何等の根拠も見出すことはできない。」
と結論を下して、本件特許を無効としたのである。
(二) しかしながら、鐘紡特許明細書の発明の詳細なる説明の項においては、「高級アルコール、蛋白質、繊維素エステル、縮合性樹脂の初期縮合物、アルデヒト等」を総括して、「重合の際加うることある諸種の物質」と記載しているのである。
従つて、鐘紡特許に所謂「蛋白質」とは、乳化重合と何等かの関係のあるような蛋白質を意味すると解すべきことは疑いがない。
然るに、鐘紡特許出願当時は勿論のこと、本件特許出願前において、鐘紡特許に蛋白質と並んであげられている高級アルコール、繊維素エステル、縮合性樹脂の初期縮合物、アルデヒト等は乳化重合液の保護コロイドとして「重合の際加ふること」が知られていたものであり、(甲第七号証及び甲第八号証)膠、カゼイン、ゼラチンの如き蛋白質も又乳化重合液の保護コロイドとして使用せられることが知られていたのである。(甲第七号証三頁末行並に十九頁四行及び甲第八号証七八頁左欄六乃至七行)。
然し、乳化重合液の保護コロイドとして用いられる蛋白質は極く限られており、その上、カゼインは勿論のこと、膠やゼラチン等乳化重合と関係のある蛋白質はすべて等電点が七以下の酸性蛋白質である。(甲第十六号証及び甲第十七号証)
それ故、鐘紡特許に記載されている蛋白質とは、乳化重合と何等かの関係のある蛋白質であり、換言すれば乳化重合液の保護コロイドとして使用せられる膠、カゼイン、ゼラチンの如き蛋白質を指すのであり、このような蛋白質はすべて所謂酸性蛋白質に属することが明らかである。それゆえ、鐘紡特許にいわゆる蛋白質は「塩基性」という本件特許のA成分の要件を有しない。
(三) 尤も重合反応に於ける保護コロイドや或は顔料固着剤として用いられる蛋白質とは別に学問的対象として研究され知られている蛋白質の中には等電点が七以上の塩基性蛋白質も存在する。
しかしながら、蛋白質の大部分が酸性蛋白質に属し、塩基性蛋白質は極めて例外的なものであることは、例えば甲第十六号証四〇四頁に、
「研究結果によると、蛋白質は大低中性溶液又は生理的液体よりも幾分酸性側にその等電点がある事がわかる。但し、プロタミンは例外で著しくアルカリ側に等電点を有し、云々」
と記載されており、更に甲第十六号証五二〇頁及び甲第二十三号証三頁に、
「一般に蛋白質の多くは等電点がPH五―七附近にあり、云々」
と述べられていることによつても確かめることができる。等電点が七以上のいわゆる塩基性蛋白質としては、プロタミン及びヒストン等が知られている。しかしながら、プロタミンは鮭や「にしん」等の魚類中に見出され、ヒストンが血球や魚の精液中に見出されるというように、いづれも特殊な存在形式をとつていて、高価且つ極めて手に入り難い蛋白質なのである。(甲第二十一号証)
かように、プロタミン、ヒストン等の如く等電点七以上の塩基性蛋白質は天然に存在することはするのであるが、之等の塩基性蛋白質は合成が不可能であり、天然にも極めて微量しか存在していないので、学問研究の対象とはなり得ても、之等を工業的原料とするようなことは、本件特許出願前は勿論のこと、現在に至るも全く行われていないのである。
従つて、鐘紡特許に所謂蛋白質が右の如き特殊な塩基性蛋白質をも表わしているとは到底解し得ないのであり、鐘紡特許の蛋白質が本件特許のA成分と全く異るものであることは明らかである。
二、蛋白質の分類
(一) 蛋白質の分類法としては一般に、
(1) 成分の相違による分類
(2) 生産場所による分類
(3) 生理作用に基づく分類
(4) 分子形状に基づく分類
(5) 電気化学的性質(等電点)の差に基づく分類
が採用されている(甲第二十二号証)。
之等の分類法の中、本件には(5)の「電気化学的性質(等電点)の差に基づく分類が直接関係を有する。この分類は等電点の差によつて、蛋白質を、「中性、酸性および塩基性タンパク質」に分類するのである。
そこで、等電点について説明すると、蛋白質の溶液を考察した場合、「或るPHに於ては正負の電荷が等しく蛋白粒子は全体として中性の点がある。このPHをその蛋白質の等電点」(甲第十六号証四〇二頁)と称するのであつて、等電点は蛋白質の種類によつて異る。
一般に蛋白質の多くは等電点がPH五乃至七附近にあり、これより異るものは夫々特に酸性蛋白質及び塩基性蛋白質と呼ばれる(甲第十六号証五二九頁及び甲第二十三号証三頁)。
かように、蛋白質の分類法として、これを等電点の差から、酸性蛋白質、中性蛋白質及び塩基性蛋白質の三種に分類する方法が一般に認められているのである。
(二) 本件特許のA成分の要件である「塩基性」とは、
「リトマス試験紙を青変し酸と中和して塩を生じる性質を有する」(甲第十三号証)ことをいうのであるが、「リトマス試験紙を青変する」とは結局、PHが七よりも大であることを指すのであつて、右の塩基性の定義は、等電点による蛋白質の分類法と一致するのである。
株式会社平凡社発行「世界大百科辞典」第十九巻四六頁(甲第二十四号証)の左欄下段には、蛋白質の酸による凝固反応について、「(2)酸による凝固」なる表題の下に、
「塩酸、硫酸、硝酸のような強酸で凝固するが、濃厚な酸には再び溶けることが多い。塩基性タンパクは酸によつて凝固しない。」
と記載されている。
かように、酸性蛋白質及び中性蛋白質は一般に酸によつて凝固する性質があるのに対して、塩基性蛋白質のみが例外的に酸によつて凝固しない。
原告が、本件特許発明のA成分には鐘紡特許のいわゆる蛋白質(酸性蛋白質)を含まないと述べたのはかゝる分類法とも合致するわけである。
(三) 本件特許にいわゆる「塩類」とは、A成分たる塩基性高分子化合物が酸と反応して得られた塩類を指すことは明らかである。
そして、本件特許のA成分である「少くとも塩類の形において、水に可溶であるかあるいは容易に乳化しうる塩基性高分子化合物」は、その「塩基性高分子化合物」を酸で中和して「塩類の形」にしたときに、「水に可溶である」か、乃至は「水に容易に乳化しうる」性質を最少限として必要とするという意味に他ならない。
従つて、酸によつて一般に凝固する性質を有する酸性蛋白質や中性蛋白質は、本件特許のA成分が具備せねばならない「少くとも塩類の形において水に可溶かあるいは容易に乳化しうる」という要件を充足し得ないものである。
B 本件特許発明と鐘紡特許に用いられる蛋白質
一、本件特許発明の要旨
本件特許発明の要旨を、本件特許公報特許請求の範囲の記載に基づいて明らかにすると次のとおりである。
(一) 原料
本件特許発明の方法には、原料として、
(1) 「少くとも塩類の形において、水に可溶であるかあるいは容易に乳化しうる塩基性高分子化合物」(A成分)と
(2) 「水に不溶なビニル重合物の乳化液」(B成分)と、更に、
(3) 必要の場合には「顔料」
とが用いられる。そして右A成分にいう「塩基性高分子化合物」とはその化合物がリトマス試験紙を青変し、且つ酸と中和して塩を生ずる性質を有する高分子化合物をいうのである。
(二) 手段
本件特許発明の手段は、右各顔料を、
(1) 「共に繊維物質上に印華し、」
(2) 「加熱、蒸熱またはアルカリ処理」を行い、
(3) これらの原料を繊維物質上に「定着せしめる」ことであつて、
(三) その技術目的は「繊維物質の処理」なのである。
二、酸、塩基の定義について、
(一) ルイスの定義及びブレンステツドの定義によれば、「酸はプロトン供与体で、塩基はプロトン受容体」であるとされる。しかし、ルイスやプレンステツドの定義はいずれも反応論口において相対的な意味で用いられる「酸」、「塩基」という用語の定義であつて、「酸性物質」や「塩基性物質」の定義でないことを注意せねばならない。かような定義は、そのものの固有の性質としての「酸性物質」や「塩基性物質」の解釈に適用せられるべきものではない。
何となれば、例えば水は苛性アルカリに対しては酸、硫酸等に対しては塩基として作用する(甲第十三号証)のであるから、ルイスやブレンステツドの定義によれば、水は相手方次第で酸になつたり、塩基になつたりする。然し、水は一般に「中性物質」として知られ且つ定義されている物質である。
また、例えば硫酸でも、硝酸に対しては塩基として作用し、水に対しては酸として作用するから、それ自身酸性物質として知られている硫酸のような物質ですから相手方次第で酸になつたり、塩基になつたりするのである。かように、右ルイスやブレンステツドの酸、塩基の定義は、それ以外の他の物質との相対的役割を論ずる場合には適用されうるが、或る一定の物質についてそのものの固有の性質として酸性物質であるか塩基性物質であるかを論ずる場合には適用されない。
(二) そのもの固有の性質として酸性物質であるか塩基性物質であるかを論ずる場合には、PH七を基準にして、PHがそれ以上であるような物質を「塩基性物質」と言い、PHが七以下の物質を「酸性物質」と呼ぶのである。従つて、このような定義においては、酸性物質が塩基性物質になつたり、塩基性物質が酸性物質になつたりするようなことはない。
例えば、内田老鶴圃刊行、千谷利三著「改稿一般物理化学」上巻第三八五頁(甲第二十五号証)には、「酸及びアルカリ溶液中の水素水酸両イオンの濃度」と題して第九七表を掲載し、
「此の表の丁度中央にある溶液を中性(neutral, nlutral)であると言ひ、之よりも上部にある溶液を酸性(acidie, sauer)、又下半分の溶液をアルカリ性(alkaline alkalibh)又は塩基性(basic, basisch)であると言ふ。」
と記載されている。右の定義もまた物質固有の性質としての「酸性」、「中性」、「塩基性」の定義であつて、原告が本件特許のA成分の要件である「塩基性」について、「リトマス試験紙を青変し、酸と中和して塩を生じる性質を有すること」を言うと述べたのも、これと全く同一の定義に基づいている。
それ故ルイスやブレンステツドの定義を適用して、酸性蛋白質、中性蛋白質及びそれらの加水分解生成物が本件特許に言う「塩基性高分子化合物」に該当するということはできない。
(三) 更にルイスやブレンステツドの酸、塩基の定義に従つて「酸性蛋白質」や「中性蛋白質」までも塩基性高分子化合物に該当するということは、本件特許明細書の記載に徴しても誤つていることは明白である。
本件特許明細書には、本件特許のA成分である「塩基性高分子化合物」について、
「塩基性の皮膜形成物質(註、A成分)の中和に使用する酸としては就中揮発性もしくは弱酸形の酸類、たとえば酢酸もしくは乳酸の如きものが使用せられ、云々。……………不揮発性もしくは強酸性の酸類をも使用することもできるもので、これらはアルカリで中和せられる。」(本件特許公報四頁右欄七乃至十八行)
と記載されている。
本件特許明細書の右記載によれば、本件特許のA成分である「塩基性高分子化合物」は「酸によつて中和せられ」る性質を有するのであり、換言すれば酸(PHが七以下の物質)によつて中和されてPHが、七に至るのである。然るに等電点が七以下の酸性蛋白質に酸を加えれば、塩は生ずるが、そのPHはますます小となりPH七から却つて遠ざかるのであつて、かような現象は中和とは呼ばない。
従つて、本件特許明細書の右記載によるも、本件特許のA成分、即ち「塩基性高分子化合物」がPH七より大きい物質を意味していることは疑の余地がないのであつて、之を蛋白質について言えば、等電点が七以下の酸性蛋白質や中性蛋白質は本件特許に言う「塩基性」なる要件を充足しないのである。
(四) 以上述べた通り、「酸性」、「塩基性」の学問上の定義によるも、或はまた本件特許明細書の記載によるも、「酸性蛋白質」や「中性蛋白質」が本件特許のA成分に該当しないことは明白である。
鐘紡特許の蛋白質が乳化重合の保護コロイドか顔料固着剤か、その孰れにしても、之等の用法に使用される蛋白質はすべて酸性蛋白質に属するのであつて、本件特許出願前に塩基性蛋白質が特に右用法に用いられたという例を見ない。それ故、鐘紡特許の蛋白質が保護コロイドとして使用されていようと、或は顔料固着剤として使用されていようと、いづれにしても鐘紡特許の蛋白質に塩基性蛋白質が含まれないという結論に変りはなくこの点からしても本件特許のA成分が鐘紡特許の蛋白質を包含するものでないことは明らかである。
三、本件特許発明のA成分は、鐘紡特許にいわゆる蛋白質を含まない。
以上述べたところから明らかなように、鐘紡特許にいわゆる蛋白質はあらゆる蛋白質を示すものでなく、それらはことごとく酸性蛋白質に属し、本件特許発明のA成分における、「塩基性高分子化合物」たる要件を欠如するのであるから、これがA成分中に包含されないものと解すべき何らの根拠もないとする審決理由の不当であることは明らかである。
被告訴訟代理人は「原告の請求を棄却する」との判決を求め、原告主張の請求原因第一記載の事実はこれを認めると述べた。
(証拠省略)
理由
一、原告の請求原因第一記載の本件無効審判の特許庁における手続経過については当事者間に争いがない。
そしてまた右無効審判の対象とせられた原告の有する第二二一、五三一号特許は昭和二十五年十月三十日ドイツ国においてせられた特許出願に基づく優先権を主張して出願せられたものであつて、その明細書の記載によればその特許請求の範囲は「少くとも塩類の形において、水に可溶であるか、あるいは容易に乳化しうる塩基性高分子化合物と共に、水に不溶なビニル重合物の乳化液をば、必要の場合には顔料と共に、繊維物質上に印華し、加熱、蒸熱またはアルカリ処理により、これを定着せしめることを特徴とする繊維物質の処理法」というにあることも当事者間に争いがなく、右争いのない事実に成立に争いのない甲第一号証とによれば、右原告の特許発明の要旨とするところは、
「原料として、
(1) 少くとも塩類の形において、水に可溶であるか、あるいは容易に乳化しうる塩基性高分子化合物(A成分)
と、
(2) 水に不溶なビニル重合物の乳化液(B成分)
と、更に
(3) 必要の場合には顔料
が用いられ、その処理方法としては、右各原料を
(1) 共に繊維物質上に印華し、
(2) 加熱、蒸熱またはアルカリ処理を行い、
(3) 右各原料を繊維物質上に定着せしめる」
点にあることが認められる。
そして本件審決は、本件特許発明の要旨を前記特許請求範囲記載のとおりと認めた上、昭和二十五年六月三十日特許庁発行の特許第一七九、八二八号特許明細書を引用の上、その特許明細書には、「ビニル系合成樹脂の単量体をポリビニルアルコールなどの部分鹸化物のような水溶性合成樹脂溶液、重合促進剤、可塑剤及び蛋白質などを適宜に含み、或いは更に染料、顔料をも任意に混和した水媒体中において単独または二種ないし数種を共重合または混合重合するか、或いはかくの如く重合したものを混合して得られる無色または着色の乳状重合液を基糊とし、これに顔料、染料のような色料、老化防止剤、前記重合の際加うることある諸種の物質などを混和した糊を用いて生地上に印捺乾燥する第一工程と、次にこれを前記合成樹脂の軟化点以上の温度で乾燥処理を施し、水分を除去しつつ合成樹脂を充分に生地に融着させる第二工程からなる堅牢捺染法が記載され、該記載はビニル系合成樹脂の単量体とポリビニルアルコールなどの部分鹸化物との重合液に蛋白質及び顔料などを加えた捺染糊を用いて生地を捺染し、次いでこれを加熱乾燥する捺染法を示したものと解することができる」と判断し、次いで原告の本件特許発明(前者)と右引用例記載の捺染法(後者)とを比較し、まず(一)「前者における水に不溶性なビニル重合物(B成分)と後者のビニル系合成樹脂モノマーをポリビニルアルコールなどの部分鹸化物を混和した水性媒体中において重合した重合物との間には格別の差異を認め難い」とし、次に(二)「前者において使用する少くとも塩類の形において水に可溶性であるか、あるいは容易に乳化しうる塩基性高分子化合物(A成分)が、この場合後者の使用する蛋白質を包含しないものと解すべき何らの根拠も見出すことはできない」ものとして、結局本件特許発明はその優先権主張日前に国内に頒布された右引用刊行物に容易に実施することができる程度において記載せられているものであり旧特許法(大正十年法律第九十六号)第四条第二号に該当し、同法第一条の規定に違反して与えられたものとして、これを無効とすべきものと判断しているものであつて、このことは成立に争いのない甲第五号証によつて明らかである。
二、そして審決における前記(一)の判断については原告も格別争つておらず、本件における問題は結局審決の前記(二)の判断の当否である。そこで、この点について以下検討する。
(一) 成立に争いのない甲第一号証(本件特許公報)によれば、本件特許明細書の発明の詳細なる説明の項には、原告主張のとおり、本件発明の原料物質中のA成分と認められる塩基性の皮膜形成物質につき、その「中和に使用する酸としては就中揮発性もしくは弱酸形の酸類、たとえば酢酸もしくは乳酸の如きものが使用せられ、………不揮発性もしくは強酸性の酸類をも使用することができるもので、これらはアルカリで中和せられる。」旨の記載があり、右の記載からすれば、本件特許のA成分である「塩基性高分子化合物」は「酸によつて中和せられる」性質を有するものであり、従つて右高分子化合物は等電点が七より大きいものと認められるところであつて、これを蛋白質についていえば、蛋白質もやはり高分子化合物ではあるが、等電点が七より小さい酸性蛋白質や、また中性の蛋白質は右のA成分中にはこれを包含しないものと解するのが相当である。
(二) また成立に争いのない甲第三号証(引例特許公報)によれば、引用特許発明は、その特許出願がせられたのは昭和二十三年六月七日のことであつて、翌二十四年三月二十五日に出願公告がせられ、同年八月九日に特許せられたものであるが、その蛋白質についての記載としては「醋酸ヴイニール、塩化ヴイニール…………の如きヴイニール系合成樹脂の単量体をポリヴイニール・アルコール、ポリ醋酸ヴイニール部分鹸化物の如き水溶性合性樹脂溶液、乳化剤、過硫酸塩類、過酸化物の如き重合促進剤、……………の如き可塑剤、油脂、高級アルコール、蛋白質、繊維素エステル、縮合性樹脂の初期縮合物、アルデヒド等を適宜に含み、或いは更に染料、顔料をも任意に混和したる水媒体中において攪伴、加熱、光熱照射等の下に単独又は二種ないし数種を共重合又は混合重合するか、或いはかくの如く重合せるものを混合して得られる無色又は着色の乳状重合液を基糊とし、これに顔料、染料の如き色料、老化防止剤、前記重合の際加うることある諸種の物質等を混和せる糊を用いて糸、布、紙の如き生地上に印捺乾燥する」とあるだけであつて、右に使用する蛋白質の具体例の記載もなく、また特に塩基性蛋白質を使用する旨の記載は全然ないものであることが認められる。
(三) ところで本件口頭弁論の全趣旨(殊に提出後撤回はせられたが乙第一、第二、第四号証等)によれば、右引例特許発明の出願当時捺染用の固着剤として使用せられていた蛋白としては、卵蛋白、血清蛋白、アルブミン、豆汁、大豆カゼイン、カゼイン、膠、ゼラチン、アイシングラス、ゼインの類にすぎなかつたことが認められ、右の中には、例えば卵白のように塩基性蛋白質をいくらか含有する(甲第六号証参照)ものもないではないが、いずれも酸性蛋白質又はそれを主成分としているものであることが認められる。従つて引例特許発明の特許出願当時の右技術水準を基準として前記の引例特許明細書の記載を見るときは、たとえ引例特許発明における「蛋白質」を顔料固着剤の一成分と見るとしても、その蛋白質は前記のような範囲の酸性蛋白質またはこれを主成分とするものを指すに止まり、本件特許発明のもののA成分のような塩基性のものの使用については全くその考慮が払われていなかつたものと認めるのが相当である。
(四) 従つて本件審決が前記判断の(二)において、本件特許発明のA成分が引用例において使用する蛋白質を包含しないものと解すべき根拠はないとしたのは失当であり、右の理由によつて本件特許発明の新規性を否定し、本件特許を無効とすべきものとした審決は不当であつて、とうてい取消を免れない。
三、以上のとおりであるから、本件審決はこれを取消すこととし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 山下朝一 多田貞治 古原勇雄)